自分で決めて自分で引き受けるということ
昨日の筋トレがキツすぎて。痛すぎて。
キツイいいいいい〜!と痛みに耐えながら、「4ヶ月前の私!なんでこんなことやるって決めたんだ!」とちょっと悪態を(心で)ついていました、青木です。
(まいど)
実はですね、朝から一悶着ありまして。
娘っ子がね、怪我をしてきたわけです。手に。
昨日学校で、うっかり人に押されて転んで。思いっきり手をすりむいて。痛いよね。地味に痛いやつ。
うちの娘っ子気が優しくて、痛いことが大嫌いだから、それはそれは泣いたらしいんだけど。友達には、「感情的すぎ」とか言われて(厳しいな、友よ)それもまた彼女を傷つけてて。母としては胸がぎゅっとなるわけですが。
そこで今朝勃発した問題
朝から起きた問題がこちら
↓
今日、プールに入るのか入らないのか問題。
選択肢1)プールに入ったらきっと手が痛い
選択肢2)プール入らないと決めたら周りの目が痛い。
どっちも痛い。
これ、「ママどう思う?」って聞かれるよね。
ママは「自分で決めなさい」なわけです。(厳しい?)
実際、「え〜・・・これくらいでプール入らないとかいう決断させちゃうの、どうなのかな〜・・・」という迷いも母なりにあったりして。でも、これは、彼女が決めなきゃいけない決断だと思うわけです。(今回は、そんなに大きな怪我じゃないから特に)
その決断を、全力でサポートする面倒くささを私が引き受けるしかない。
入らない!と決めたら、(ちょっとめんどくさいけど)先生にメール送るよね。過保護な親を演じるよね。(むしろ、これ決めてきたらあっぱれ!だけど)
その時、私がどう思うかとか、いったん脇に置いておく必要があると思っていて。
これ、「入りなさい」とか、私が決めちゃうのって、めっちゃ楽じゃないかなと思ったりするわけです。実際、親に言われたことを言われた通りにやってみて、気がつくことも多いとは思う。
でも、今回はこっちを優先してみました。
↓
自分で決めるということ。
その決断に伴う「痛み」を自分で引き受ける練習。
入る!と決めたら、手が痛いことは引き受けなきゃいけない。
手が痛いことが嫌だから、入らない!って決めるなら、周りの目が痛いことは自分で引き受けなきゃいけない。(私も含めた)周りの目はコントロールできないから。
実際、彼女の中では「入らない」という決断をしたい気持ちが9割。でも、それで友達を失うんじゃないかという恐怖と闘ってる。(まぁ、そんなことないと思うけど、それと闘ってみて、そうなるかどうかも実験だし、気付きは多いはず)
そして、それを決めるのは「自分」
ママが入れって言ったからっていうのが1番悪い。そんなのを「当たり前」にしていったら、これから先もずっとなにかを決める時、人に決めてもらう人生が始まる。
そうなってくると、痛みも辛さも全部人のせい。
自分で引き受ける強さと自由さは、訓練しないと身につかない。私が決めることはめちゃくちゃ楽。私だって楽。
でも、これってこの子の「生きる力」を培うチャンスをみすみす見逃すことになるんじゃないかと思ったりするわけです。(こんなチャンス滅多にこないし!)めちゃんこめんどくさいけど、付き合っちゃる。
昔、「子育ては、めんどくさいをやること」って言ってる人がいて、最高だな!と思ったのですが、こういうめんどくささを引き受けると「自分の人生を自分で決められる子」に育つのだろう、という仮説のもと全力で検証してる最中。(人生是実験)
強く生きて。
自由に生きて。
自分の人生を自分で決められる子になって。
たくましく、誰のせいでもなく、ましてや誰かのためではなく、自分のために生きる。
誰かに「やらされた」のではなく、「誰かの意見を聞いて自分で決めた」ということが腹落ちしたら、これ程強いことはない。これができればどんなことがあっても、すべてを自分で引き受けられる。
強く生きて。自由に生きて。自分のために生きて。
自分で決めて、自分で引き受ける。
こんなに強く、厳しく、そして自由で、豊かな人生はないと思う。
隣の部屋でシクシク泣いている10歳さんが愛しくて仕方がない。可愛くて仕方がない。
あぁ、生きてるってホントに楽しい。
今日も、私も、自分で決めて、自分で引き受けて、自分を幸せにするための全力を出し続けてあげようと思います。自分のために。
(イメージ図)
そして、娘には。
痛がってこい。苦しんでこい。
ただいま、と帰ってきたら全力で抱きしめてあげるから。私にできることはそれだけ。愛しい子、美しい人生を生きて。あぁ、愛しくて苦しい。
おしまい