「人生の質」を決めるものがこのたび確定した件
ほんとにしょっちゅう洪水を起こす場所にずっと住んでる人っているじゃないですか。なんで引っ越さないのかなぁ?って純粋に疑問に思ったりしません?
この度、自分がまったく同じことをしていたことに驚きました、青木です。
(まいど)
長年のなぞ
みんな、「幸せ」に向かって生きていると思うわけです。全力で。
「不幸になろう」として生きてる人って、きっといないよね。
「幸せ」になろうとみんな、必死。全力疾走。髪振り乱して。朝食パンを口に挟んだまま、電車飛びのるレベルの全力疾走。
でも、「幸せな人生」って一体なんなのかが分からないまま、「とりあえず、これが幸せらしい」と思って動いている人が多いことも事実。そして、貴重な時間を使って「それが本当かどうか」を調べる壮大な人体実験をする。
もしくは、自分で「この延長線が幸せにつながっている」と判断した道を必死で生きる。
でも、なにかを「欲しい」と思って、それに向かって努力してるのに、それを得た時に「幸せそうじゃない人」って意外といっぱいいる。そういう話も多く聞く。これ、「どうしてだろう?」と思っていたわけです。
そして、私も。
なにかを「達成したい」と思っていて。それを「達成した」と思ったときに、「もっともっと」「来年は、もっと」「再来年は、もっと」って、なんか終わりが見えない。そして、「達成感」はあるけど、「疲れてる」という事態に陥ってたことがあって。
「幸せ」に向かって、全力疾走してたはずなんだけど、なんでだろう?って。
今回、この記事にも書いたUPWを受けていて、「あ!そういうことか」とものすごく納得した事実がこれ。
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「人生の質」は「感情の質」
らしいですよ、奥さん。(人生の質を決めるものは、人間関係とか、お金とか、環境とかかと思ってた)
感情って、いろんなものがある。
嬉しい!とか、楽しい!とか、苦しい・・・。とか、寂しい・・・。とか。
その時々で、いろいろな感情が出てくるけど、「最終いっつもそこに帰る」という「感情の家」というものを人は持っていて。
いっつも怒ってる人は、「怒る」という感情の家に戻る。
いっつも寂しさを感じている人は、「寂しい」という自分の家に戻る。
いっとき、人に会って盛り上がって「嬉しい」とか「楽しい」とかの感情を感じることはあるけど、最終的に帰るのは、「自分の家」
「感謝」の家に住む人、「喜び」の家に住む人、「楽しい!」の家に住む人、「罪悪感」の家に住む人、「不安」の家に住む人、「愛」の家に住む人。
それぞれ、これまでの歴史があって「そこに住む」に至る。そして毎瞬そこに戻っていって、その「家」で過ごし続けると、その「家」が自分の「人生」になっていく。
どの家がいい!とか悪い!とかの話じゃなくて、ただ、「そこに住んでる」という事実がそこにあるだけ。しかも、それは無意識におこなわれる。
っていうことは、だよ。
自分が毎度なにを感じているのか、しっかり「認知」して、自分の「感情の家」がわかっていないと、人生が終わる瞬間に「驚愕」すると思うわけです。「あれ?自分、なにが欲しかったんだっけ?」って。
自分が欲しいのは、「モノ」でも「人」でもなく「地位」でもなく「名声」でもなく「そこに付随するであろう感情」なんだということを知らないといけない。
いつも寂しいんだとしたら、それは自分が選んだ「家」。いっつも自分でその感情は「選んでる」
そういう「寂しい人生」を生きたいならその家に住み続ければいい。自分が人生で欲しい感情は、「寂しさだ!」つって。孤独感を全力で感じる人生を「選ぶ」
でも「いつも幸せ」「いつも最高に楽しい」っていう人生を生きたいなら、「感情の家」を「寂しい」から「楽しい」に変えないといけない。
でも、ここで問題が。
その「家」は長年住んでるから、めっちゃ居心地がいい。それ以外の場所に住むとか、ちょっと考えられない。安全地帯がそこにある。経験もあるから、その「家の住み方」とか、知りすぎてる。引っ越すとか、おおごとすぎてきつい(←引っ越し大嫌いな人)
あああああああ〜!なんてこった。めっちゃ気持ちわかる。外から見てたら、もっと居心地いい家あるよ?って思うんだろうな〜・・・とか、わかる。でも、めんどくさいし、大変すぎるから「そのまま」を選んでしまいそうになる。でも、これ「人生」がかかってるとしたら?「どんな人生を自分が歩くのか」に関わってるとしたら、やっぱりその瞬間は大変でも引っ越す必要があるよね。
どんなに「外的環境」をそろえたって、いっつも「怒り」にまみれてたらそれって幸せじゃない。
人生の質は感情の質。
なにかが「足りない!」という感情は爆発的なエネルギーだから、自分を動かすモチベーションになる。
コンプレックスとか、大きな喪失感とか、寂しさとか、怒りとか。そういうものを「バネ」にして、自分を高める。
すごくいい。
だけど、それを達成しようとしているとき、自分の中に芽生える感情と向き合う必要がある。なにか成し遂げて、自分は「幸せ」をしっかり感じられているか?本当幸せですか?虚しくはないですか?
もしその感情が「虚しさ」なら、私の「感情の家」は「虚しさ」となり、「人生」が「虚しい人生」になってしまう。
人生の質は感情の質。
どんなにお金持ちになったって、いっつも怒ってる人がいる。
どんなに成功したって、いっつも寂しい人がいる。
それは、その人たちが「選んでる」感情がそれだから。自分がいつなにを感じているのかいつだって「観察」しないといけない。
それはあなたを「本当に」満たしていますか?「足りない」という想いからきた、「まやかし」じゃないですか?って。
もっともっとという気持ちはわたしを突き動かすけど、気をつけていなくちゃいけないのは、「今私はなにを感じているか」
なにかを求めて、それが達成されたときに本当に喜んでいるのか?それを「得たこと」によって、なにかが証明できたような「気がする」だけじゃないのか。
私は「楽しい人生」を生きたい。だとしたら、わたしの中に湧き上がる感情が「楽しい」だったり「愛」だったり「喜び」である必要がある。そして、そこに「住む!」と決意して、その都度その「家に帰る」ようにしないといけない。
いつも「寂しい」なら、それは間違ったアプローチをしているはず。「孤独」という感情を感じ続けたまま進むと、それは「孤独」の人生になってしまう。
すごい響いた。(ちょっとした鈍器で殴られて、除夜の鐘頭の中で鳴ってる感じ)
充実感を感じられない成功は、悲劇。
もっともっとの先は、なにも残らない。
「今」幸せである必要がある。
だから、自分が感じている感情をしっかり「認知」して、本当に自分が欲しい感情はコレだったのか?と向き合う。自分が難解生物すぎて、毎回苦戦するけど、こんな面白いゲーム、他に売ってないよな〜と毎度思うわけです。最高に面白い、この人生ゲーム。
今日も、どっぷり浸かってみようと思います。
おしまい