他人の人生を生きると宿便がたまるという話
ひさしぶりにブログを書いてみようかなぁ
と、ふと思い立ってしまったので、筆をというか、キーボードをしたためています
うんこの妖精あおきです←
まいど
他人の人生を生きる
とはどういうことだっけな・・・
と、年明け早々思ったわけですよ。
ええ、そうです。
カンの良い方はお気づきかもしれませんが、3ヶ月ほどこの記事下書きで寝かしておりました(謎
ということで、ここからは2023年1月の青木の「今」ですよろぴく
気を取り直して本編
この文章を書いている間にも
(カフェ・ド・クリエですがね、余計な情報ですね)
目の前の人が頼んだポルチーニ香るカルボナーラ的な香りが
めちゃくちゃ食欲を誘われてくるわけですが。
そんな意識も混沌とする中、考えていましてですね
ふと思うことは、これ
↓
自分が下す決断の中枢が
「他人を喜ばせること」
にすえられること
これが、
「他人の人生を生きること」なのではなかろうかと。
自分の望み
が先に来ていないことをいうわけです
でも、なんだかことは複雑でして。
他人を喜ばせる
ということが
「やりたいこと」
という人が一定数いるわけですよ。
これは複雑ですね。
そんじょそこらの韓流ドラマよりも複雑です。
余談ですが、
韓流ドラマの脚本家の頭ってどうなってるんだろうね。
展開が複雑すぎて、ビックリすることあるよね!
とまあ、それくらい複雑なわけです。
(説得力とは
なんでこれが複雑かというとですね。
たまに「人を喜ばせること」をしっかり「選んでいる」ということがあるからなんだよね!
この場合、自分から力が奪われてないから
めっちゃ自分を生きてる感じがするわけですよ。
それのいい例が、戦国時代の軍師だよね。
「殿を勝たせる!」みたいなやつ
そういうのだと力奪われてることってないんだけどね・・・
やっぱり、判定基準は「体感」でして。
体感が重いときって、
その決断の
「出所」が
不安や恐怖だったりしますよね
自分で決めてる感ゼロ
でも、体感が軽いときって、
自分で選んで
自分で決めて
自分を生きてる
それって、出どころが
「愛」なのではなかろうかと思うわけです。
子育ても同じ
母親業で、力が奪われている人と、奪われていない人の違いは
恐怖・不安で
その選択を「選ばされてる感」なのか
ただただ愛で、
「好きで仕方ないことをしている感」なのか。
そういうことなのではなかろうかと。
なので、
自分は自分の人生を生きているのか
他人の人生を生きているのか
チェックしたいな、と思う方はぜひ、
体感を見てもらえればいいのではないかと思っております。
そこに愛はあるのかい?