なぜ、人の間違いが気になるのか問題
ある日のことですが。
ものすごく日本語が得意な方とお話をしておりまして。(日本人)
ふと、「違和感を感じたんだよね」と表現したところ・・・
「違和感は『感じる』じゃなくて、『覚える』が正解」
と、間違いを指摘されたことがありました。
へ〜!
それまでの私→「知らなかった人」
ここからの私→「知っている人」
「へ〜!そうなんだ!勉強になるぅ!」
と、思ったわけです。だけども、感じることってそれだけじゃなかったりして。
さらに思うことは、
「いやだ〜・・・恥ずかしい」
ここ、クセものだな、といっつも思います。
一つ賢くなっただけ。
という事実しかそこにはないのに。
「恥ずかしい」という感情が生まれた瞬間、困った事態に陥ります。
なぜなら、「恥ずかしい」という感情は、自分に対する「ジャッジ」だから。
結果・・・自分でも驚くようなことが起きますわな。
知った瞬間から、何が始まるかっていうと・・・
「違和感を感じる」
と表現する人のことを
「あ!間違ってる!」
と思い出すんだよね〜・・・!
これ、いっつも自分で思うんだけど、マジウケル。
昨日まで知らなかったくせに。
自分も教えてもらったくせに。
それを知らない人をジャッジし始める。
ジャッジの先にあるもの
結果「知っている自分」を誇らしくすら感じたりする。
ここ、なんでそんなことが起きるのかって、自分研究所所長(だれw)としては気になるので分析とかしちゃうんだけど、やっぱり、これに尽きるなと思います。
↓
「もともと自分は、ダメな感じだ」
っていう、「確信」なんだろうな、と。
だから、鎧みたいに得た「知識」でしか、「すごい自分」を感じられなくて。
そこには、「すごくない他人」が必要で。
比較することで、「安心」するんだろうな、と感じるわけです。
でも、これ。
教えてくれた人がいたからたまたま知っていただけ。
だし、
なんなら、その瞬間がなかったら自分だって同じだし。
「その人」と「自分」の違いは、ただ一つ「知るチャンスがあったかどうかだけ」
それは与えられていることが多いわけです。
いっつも不安な自分が、そこにいる。
自分って、いっつも「足りない」って思っているんだな、ということを「知る」だけで、ものすごく人に対して優しい気持ちで居られるんだろうな、と。
そして、自分も責めない。
全然知らない自分を許していくし、「これまで知らなかった自分」を恥ずかしいとも感じることなく(ジャッジすることなく)
また一つ賢くなった!と喜ぶ。
それだけでいいんじゃないかな、と思うわけです。
これ、英語に関しても全く同じ感覚な人が多いから。いちいち自分の知識量も、人の英語もジャッジしないようにするの、とっても大事。
そして、その「優しい気持ちでいられること」の結果何が得られるかというと・・・
「脳が疲れない!」
はい、来ました。
やっぱり、ここに落ち着きます。
マインドフルネス!
マインドフルネスについては、こちら
↓
この記事でも書いたけど。
「脳が疲れる最大の原因」は、「人を嫌うこと」
これ、「ジャッジすること」と同じ意味なんだろうな、と私は理解しています。
「ジャッジ」しなけりゃ嫌いな人なんかいないわけだし。
やっぱり、ジャッジすることなく「今、ここ。自分」だけを感じ切る。
そうすると、「疲れが取れる」
そうやって自分を癒すと、不安な自分とも向き合えて。
「自分はいつも不安」という真実を知ると、「人間なんて、そんなもの」と開き直れて。ジャッジをする必要がなくなってくるんじゃなかろうか、と思うわけです。
「そんなことも知らないノォ〜?」みたいな気持ちから解放されることって、本当に幸せ。
ジャッジしないと、自分がジャッジされることも気にならなくなるから。
間違えも怖くなくなる。
やっぱり、ここが、
At least I tried.
に繋がるのかな、とか思ったりします。
自分の間違え=集団に恥をかかせるという恐怖
っていう図を日本人は抱えているから余計だよね。
ここからの解放って、きっと大きい。
At least I tried.問題については、こちら
↓
ジャッジから解放されて、生きやすい人が増えるといいな。
私も、一つずつ自分のジャッジと向き合って、自らをほぐしていこうと思います。
おしまい